現代における武芸者のありようとは

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戦国乱世は遠い昔のことながら

武士の魂やはり剣。

敢えて戦がなければこそ

腕に覚えの剣客どもは

売り込み合戦に明け暮れる。

いや、まさしく昨今、

剣術は商売なり

テレビ版剣客商売の有名なオープニングナレーションの一節。

今の時代なにをやるにしても霞を食ってだけでは生きられぬ。大好きな芸事だってほとんどの人にとっては仕事を差し置いて稽古に明け暮れるわけにはいかない。それを実現できている一部の指導者たちはなんと贅沢で恵まれたことかと思う。武芸に親しんでたった数年(空手や剣道歴も加えれば30年になるが)のこのわたしもその一人であると思う。

それもこれも戦国時代ではない現世において、武芸の生き残る道(武芸を生活の一部と位置づけるための免罪符)の一つは商売にありと自分の中で勝手に決めつけたからだ。もっと正確に言えば、私が生活と武芸を両立させる道はそれを経済と密接に結びつけること、という意味である。(あくまで個人的な手段として。)

武芸は目的か手段か

続けたくても続けられない、もっとのめり込みたくてものめり込めない、やりたくでもできない、なぜなら「お金も時間もかかるから」と諦めている人は、習い覚えた武芸で少なくとも武芸を続けることができるだけの収入、収益を得てみようと発想してみることは有意義であると思う。

なにもそれで荒稼ぎしよう、といっているのではない。またそれが目的となってはならない。しかし手段にするのは個人の自由だ。

こと武芸においては金儲けは悪と嫌悪感を示す輩が実に多い。商売人のわたしから言わせれば私財を食いつぶして我慢を強いられる暮らしをしたり(それが好きなら構わない)、挙句、借金をするなどして人様に迷惑を掛けて武芸を行っている者が一番質が悪い。最悪なのは上下関係の微妙な心理を巧みに利用して金品を巻き上げようとする輩だ。

そもそも自らの技芸で食うことの出来ない者など武芸者とは呼ぶに値しない。

以上のことは生涯学習として武芸を続けていくだけの経済は武芸によって生み出すことで好循環をつくれはしないだろうか、という提案の一つにすぎないし、誰もがそうすべきという意味ではないし、できやしないことは百も承知だ。

目的達成のために手段はいくつも考えることができる、という思考方法であって、あなたが武芸に価値を感じ、心の底からやりたいと願うのなら「諦める」のではなくやれる方法、できる方法を考えればいい。

音楽を演る人は上げた腕前でコンサートを開く。やがて有料のコンサートを開いて活動資金を得たり新しい楽器を買い求めたりする。プロになればそれで生計を立てる。ごく普通のことだ。

剣術だけが金儲けをしてはならぬ、という理屈はない。身につけた技能でそれを持続的に発展させうるだけの金品を得ることのなにが悪いのか。なにを負い目に感じる必要があるだろうか。もっとも江戸時代においても武芸で食えない武士はもっぱら副業に精を出すことになったのだ。

剣術をやるために金儲けをする、というのは、好き嫌いの価値観の違いはあれど立派に成立しうる、と個人的には思う。この一方で、金儲けのために剣術をする輩は非難の対象となる。

日本刀の美術的側面と機能的側面

美術工芸品としての側面を持つ日本刀。むしろその側面ばかりが着目され、機能的側面については忌避される風潮もある。もともと「斬る」ためのものだった日本刀は「斬る」ことがなくなった現代においてはもっぱら「観る」対象となった。

展示陳列され鑑賞のための動かぬ美術工芸品のあり方は否定はしない。しかしながら、それを扱うことによる美術的側面、つまり武芸そのものも美的要素を持ちうること、刀を操る身体そのもの、それが抽象化されると技や術そのものが芸術ともなりうることも示唆しておく必要がある。

こういうのはコントラストの問題であるから、同時に「斬る・斬れる」という機能的側面を際立たせることで、それが芸としての付加価値を持ちうることは想像に難くない。むしろ当たり前の理屈である。もっと言えば、そういうのも含めて、日本刀の持ちうる世界観の広がりや奥行、味わい深さ(コク)、つまり、「魅力」であると捉えるべきだ。

そうでないと日本人の魂と言われたり、国宝の10%を日本刀が占める、というほどに価値をもつには至らない。

機能的にも優れているものが美しいから国宝にもなりうるのである。

日本刀の機能的側面とその身体技法に着目して

先日のブログでも書いたが、今仲間とともに日本刀の「斬る・斬れるという機能的側面」およびその「身体技法」に着目、特化した研究所を立ち上げている。

単に斬れれば良いとか、斬ってすっきりしてストレス発散するというのが目的ではないし、目的であってはならない。斬ることが目的であるならば日本刀である必要はないのだ。

最近人気の物斬りを楽しむ人の中には、畳表を斬るのに特化した刃肉を削ぎ落としてカッターナイフのように鋭利な刃先をもった刀を用いることが多く見られるが、これはこれである。畳表を斬る、という限定条件下であれば、それはたしかに斬れるのだし、そのために犠牲にしたこともある。

こういうのを否定するということではない。否定のスタンスからはクリエイティブなものは生まれ得ない。それはそれと認めた上で、その他の条件での斬法(きほう)も追求し、斬ることに関して普遍的な真理を炙り出そうとしている。

日本刀(真剣)とはなにか

日本刀とは何なのか、日本刀で斬るとはどういうことなのか。

武士の情けとは相手ができるだけ苦しむことが無いように斬ることでもあるという。そのためには相手が斬られたのに気づかないくらい刃筋の通った切れ味鋭い斬りを実現させる必要がある。

そして、どうせ斬るなら美しくかっこよく斬りたい。刀の斬れ味も重要だが、それを扱う人間の身のこなしもキレッキレでなければならない。そのために心と身体、そして技を磨かねばならない。

だから練習して上達を目指す。上達のために制限は設けない。ここは武道団体ではなく研究所である。

武道が人間形成のためにあるというのなら、武道が武道によってその妨げになることはあってはならない。上達のためなら手段を制限せず、自由にのびのびと研究できる環境が望ましい。

技斬りを大道芸であると否定する人もいる。

わたし個人は技斬りを推奨する立場にも得意とする立場にもないが、否定するのは簡単だと言いたい。そうではなく、技斬りをするためにクリアしなければならない幾つかの条件、それが明確にわかっているのであれば、その通りやれば斬れるはずである。にも関わらずやってできないということは、いくつかの条件を、またはすべての条件をクリアできていない(その技前に達していない)からであって、そういう段階で否定することはあってはならないと思う。

否定するからには自分は当たり前にできて、さらに上を目指している、というのでなければ格好悪いのでは?と個人的には思うのである。

真剣でなにを斬るのか

練習では使う古しの畳表を水に浸けたものを斬るのが一般的である。その他には、青竹や芭蕉、新聞紙や半紙、牛乳パック、天井から吊り下げた凧糸などを斬って練習する。

しかしこれはあくまでも仮標(かりしめ)である。

物斬りが目的なのではなく物斬りを通じて何を斬っているのか、それが重要だ。

斬法の体験に来られる方々にはこう説明している。

「実際に斬っているのは仮標ですが、その仮標を斬ることを通じて、弱い自分、嫌いな自分、過去に対する後悔、未来に対する不安、そういったものを一切合切一刀両断して、今此処この瞬間にフォーカスし、今此処を生きることが目的です」

これはまさに武士の生き様に他ならない。

真剣斬法を通じて、また、真剣斬法を通じてでしか実現しえない境地、魂のゆさぶり。こうしたことを日々日々お伝えしたり、体験したりできるできる場所をつくっていきたい。

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後藤健太

【サムライ社長】
斬法総合研究所所長/真剣武士道指南役
株式会社コンセプト・コア代表取締役/経営コンサルタント
会社の公式として書けないことをこちらの社長ブログに書いてます

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